25 アダム・スミス
『国富論』(岩波文庫)
「文明社会では、人はつねに多数の人びとの協力と援助を必要としているのに、一生をかけても何人かの人びとの友情を得るのに足りない。」(1巻38頁)
「政治家あるいは立法者の科学の一部門と考えられる政治経済学は、二つのちがった目標をめざしている。第一に、民衆に豊富な収入または生活資料を供給すること、つまり、もっと適切にいえば、民衆がみずからそのような収入または生活資料を調達できるようにすること、そして第二に、公務を行うのにたりるだけの収入を、国家または公共社会に供給することがそれである。経済学は民衆と主権者との双方を富ますことをめざしている。」(2巻257頁)
「彼はただ彼自身の安全だけを意図しているのであり、またその勤労を、その生産物が最大の価値をもつようなしかたで方向づけることによって、彼はただ彼自身の儲けだけを意図しているのである。そして彼はこの場合にも、他の多くのばあいと同様に、みえない手に導かれて、彼の意図にまったくなかった目的を推進するようになるのである。」(2巻303頁)
「奨励金の効果は、重商主義の他のすべての方策の効果と同様、一国の貿易を、その貿易が自然に向かっていくような方向よりもはるかに利益の少ない方向に、しいて向わせることでしかない。」(3巻15頁)
本書が書かれた時代は、重商主義がヨーロッパ諸国の主流で、スミスが経済発展に欠かせないと考えていた労働力の自由な移動を妨げていると批判。その論旨の結論として、アメリカ植民地を放棄すべきと主張している。刊行(1776年3月)の直後(7月)にアメリカ独立宣言という事態に至る情勢の下、その独立を経済学的に根拠づけた名著である。
経済学の古典中の古典。「見えざる手」による予定調和的自由放任政策で有名だが、それは資本家の擁護という目的ではない。民衆の収入を富ますためにこそ政治は行動すべきであるといい、資本家への奨励金(補助金)や税制優遇は正常な経済活動を妨げると批判している。
富の源泉は分業にあるというスミスの論旨はとてもヒューマンで、私の好きな古典である。
26 マルクス
『経済学・哲学草稿』(光文社古典新訳文庫)
「労働が強力になればなるほど労働者は無力になるし、労働が才気に満ちたものであればあるほど労働者は才気を欠いた自然の奴隷となる。」(95頁)
「対象世界の加工という行為において、人間は初めて、現実に自分が類的存在であることを示すといえる。」(103頁)
「五感の形成は、これまでの世界史の全体によってなしとげられた成果なのだ。」(156頁)
「自然科学は、一見して非人間化を完成せざるをえないものではあるが、産業を媒介にしたその活動は、実践的に人間の生活に深く入り込み、人間の生活を改革して人間の解放を準備するものとなっている。(中略)かくて、自然科学は、物質一辺倒の観念的な方向性を捨てて、人間的な学問の土台となるはずだ。」(159)
「人間の歴史のうちに――人間社会の生成行為のうちに――生成してくる自然こそが、人間にとっての現実の自然だ。産業の生みだした自然こそが、疎外された形を取ってはいても、真の人間的な自然なのだ。」(160頁)
「人間が人間として存在し、人間と世界との関係が人間的な関係である、という前提に立てば、愛は愛としか交換できないし、信頼は信頼としか交換できない。芸術を楽しみたいと思えば、芸術性のゆたかな人間にならねばならない。他人に影響をあたえたいと思えば、実際に生き生きと元気よく他人に働きかける人にならねばならない。」(251頁)
マルクス26歳(1844年)に書かれた草稿が、死後49年後に刊行された。スミスらの国民経済学やヘーゲルらの批判哲学から多くを学びながら、それらを批判し、新しい思想を打ち立てようとする青年期の躍動を感じさせる。
若いマルクスは自然科学の進展に人間解放の期待を寄せている。もし、原子力が自然科学の一つの到達点であるとすれば、これを制御できていない社会科学や社会システムの欠陥とは何だろうか。そんな視点からの分析も意義深いと思う。
27 レーニン
『帝国主義』(岩波文庫)
「資本主義は、地上人口の圧倒的多数にたいする、ひとにぎりの「先進」諸国による植民地的抑圧と金融的絞殺とのための、世界体制に成長転化した。そしてこの「獲物」の分配は、世界的に強大な、足の先から頭のてっぺんまで武装した二、三の強盗ども(アメリカ、イギリス、日本)のあいだでおこなわれ、そして彼らは、自分たちの獲物を分配するための自分たちの戦争に、全地球をひきずりこむのである。」(18頁)
「訓練された労働力は独占され、優秀な技師は雇いきられ、交通路と交通機関はおさえられる。資本主義は、その帝国主義的段階において、生産のもっとも全面的な社会化にぴったりと接近する。それは、いわば、資本家たちを、彼らの意思と意識とに反して、競争の完全な自由から完全な社会化への過渡をなす、ある新しい社会秩序に引きずりこむ。」(43頁)
「かの「地方分権化」ということは、実は、以前は比較的「独立的」であった経済単位、あるいはもっと正確にいえば、地方的に孤立していた経済単位のますます多数のものが、単一の中心に従属化する、ということである。つまりそれは、実は集中であり、独占的巨人の役割、意義、力の強化である。」(56頁)
「資本主義経済の社会化という点で、貯蓄銀行と郵便局とが銀行と競争をはじめている。これらは銀行よりも「地方分権化」されている。すなわち、ますます多くの地方と、ますます多くの僻遠地と、ますます広汎な住民層とを、その勢力圏内にひきいれている。」(62頁)
「資本家たちが世界を分割するのは、彼らの特殊の悪意からではなくて、集積の到達した段階が、利潤を獲得するためには、彼らをして否応なしにこの道をとらせるからである。」(124頁)
本書が刊行された(1917年)第一次世界大戦の直前、多くの社会主義者らは自国の戦争を支持する態度をとり、国際的な連携は事実上崩壊してしまう。レーニンは、戦争賛成派などの議論を反論する必要性を痛感し、帝国主義戦争は列強の「政策」の一つなどではなく、資本主義の最高段階における必然の現象であることを解明しようとした。
当時、ヨーロッパのはやり言葉は「地方分権」であったが、レーニンはそれが欺瞞的なものであると、統計を使って指摘した。今も同じことが繰り返されているような・・
28 シュンペーター
『経済発展の理論』(岩波文庫)
「経済における革新は、新しい欲望がまず消費者の間に自発的に現われ、その圧力によって生産機構の方向が変えられるというふうにおこなわれるのではなく、むしろ新しい欲望が生産の側から消費者に教え込まれ、したがってイニシアティブは生産の側にあるというふうにおこなわれるのがつねである。」(上181頁)
「多くの価値は破壊され、国民経済の指導者の計画における根本条件や前提条件は変革される。国民経済は再び前進しうる前に盛返しを必要とし、その価値体系は再組織を必要とする。しかも次に再び始まる発展は新しい発展であって、単に旧い発展の継続ではない。」(下194頁)
「恐慌は経済発展の転換点である。」(下207頁)
「なぜ企業者は連続的に、したがって各瞬間において孤立的に現われないで、群をなして現われるのであろうか。その理由はもっぱら、一人あるいは数人の企業者の出現が他の企業者の出現を、またこれがさらにそれ以上のますます多数の貴牛舎の出現を容易にするという形で作用する、ということにある。」(下218頁)
本書の刊行は1912年。当時、第一次世界戦争前の米国経済は活気に満ち、経済志向は国を挙げて強烈なものがあった。シュンペーターは、こういう米国の状態を理論的に分析する中から、経済発展の原理を打ち出した。ドラッカーの恩師でもある。
シュンペーターによれば、経済発展をもたらすのは、新結合によりイノベーション(革新)を引き起こす企業者であり、それらは群れをなして現われるという。そうであれば、企業者を育て、組織した地域に経済発展がもたらされることになる。
わが大町市(の商工団体や銀行、行政)は、起業を誘発するような刺激ある機会を提供したり、自由な精神を涵養したりして、企業家を育てているであろうか。
29 ケインズ
『雇用、利子および貨幣の一般理論』(岩波文庫)
「いま、大蔵省が古紙に紙幣をいっぱい詰めて廃坑の適当な深さのところに埋め、その穴を町のごみ屑で地表まで塞いでおくとする。そして百戦錬磨の自由放任の原理にのっとる民間企業に紙幣をふたたび掘り起こさせるものとしよう。そうすればこれ以上の失業は起こらなくてすむし、またそのおかげで、社会の実質所得と、そしてまたその資本という富は、おそらくいまよりかなり大きくなっているだろう。なるほど住宅等を建設するほうがもっと理にかなっている。しかしこのような手段に政治的、現実的な困難があるならば、上述したことは何もしないよりはまだましである。」(上179頁)
「完全雇用に近い状態を確保するには投資を多少なりとも包括的な形で社会化するより他に途はない」(下186頁)
「個人主義は、その欠陥を取り除け濫用を慎む場合には、他のどのような体制よりも自己選択を行使する領域を大幅に拡大するという意味で、個人的自由の最良の守護者でもある。生活に多様性が生まれるのはまさしくこの拡大した自己選択の領域のゆえである。多様性の喪失こそは同質的あるいは全体主義的な国家が喪失するものの中の最たるものだからである。なにしろこの多様性というものは、いまに至る諸世代の最も確かで最も成功した選択を体化した伝統を保持し、それが織りなす多様な空想で現在に彩りを添え、しかもそれは伝統や空想の侍女であるとともに実験の侍女でもあり、将来をより良きものにするための最強の道具なのだ。」(下189頁)
世界大恐慌(1929年)で失業者が街にあふれる中、ケインズは「雇用の規模を決定する諸力に関する研究」(上ⅹⅴ頁)として本書を著した(1936年)。この理論は世界中の経済政策に影響を与えたが、公共投資の増大が国家財政の肥大化と借金体質、公共事業の利権化を招いたとの批判を浴びるようになった。それでも社会全体の便益からみると、必要不可欠な公共事業があり、公共団体にしかできない事業もあるのも事実だと思う。
ケインズは、本書の結語で「思想というものは、もしそれが正しいものとしたら時代を超えた力をもつ、間違いなくもつ、と私は予言する。」(下194頁)と語り、経済学者や政治哲学者がビジョンを示すことが、何よりもの処方箋だと言っている。大町市に欠けているのは、市民に夢を与えるビジョンであり、それを裏付ける理論であり、行動(内発的な公共事業)ではなかろうか。