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09 旧約聖書


『創世記』(岩波文庫) 一〇 バベルの塔(全文)  

さて全地は同じ言語を持ち、同じ言葉を話していた。人々は東の方から移って、シナルの地に平地を見つけて、そこに住みついた。人々はたがいに言った、「さあ、煉瓦を造ってそれをよく焼こう」。こうして彼らは石のかわりに煉瓦を、粘土のかわりに瀝青(れきせい)を用いるようになった。彼らは言った。「さあ、われわれは一つの町を建て、その頂きが天に達する一つの塔を造り、それによってわれわれの名を有名にしよう。全地の面に散らされるといけないから」。ヤハウェ(神)は天から降りて来られ、人の子らが建てていた町と塔とを御覧になった。ヤハウェが言われるのに、「御覧、彼らはみな同じ言語をもった一つの民である。そしてその始めた最初の仕事がこの有様だ。今に彼らの企てる何事も不可能なことはなくなるだろう。よし、われわれは降りていって、あそこで彼らの言葉を混乱させ、彼らの言葉がたがいに通じないようにしよう」。ヤハウェは彼らをそこから全地の面に散らされたので、彼らは町を建てることを放棄した。それゆえその町の名をバベル(乱れ)と呼ぶのである。というのはそこでヤハウェが全地の言葉を乱し、またそこからヤハウェが彼らを全地の面に散らされたからである。」(36頁)  旧約聖書は、これが書かれた「現在」の男女の関係や農耕の苦しみ、人々の趣向などの原因となる祖先たちの歴史の秘密が語られている原因譚である。数千年の間の口碑だからこそ、権力者による歴史書よりも強い影響力があるのだろう。  「バベルの塔」の話は、民族がそれぞれに別々の土地に住み、別々の言語を持つこととなった原因譚である。人間が技術に過信して、神にも近づこうとした傲慢さが、ヤハウェ神の怒りを招いた。  今では、人類の歴史からみればほんの一瞬の間に、超高層建築のみならず、原子力や遺伝子まで操作し、英国や米国などの市場経済力により英語が世界の共通語として台頭し、インターネットが時空を超えたコミュニケーションを可能にしてきた。  しかし、こうした先人達が経験則から教えていることに対して、私たちはちゃんとした回答を持っているのだろうか。  やたら人名が多く出てきて、日本人にはなじみにくい旧約聖書だが、読んでみるとこれが意外と面白い。まさに古典中の古典である。


10 トクビル


『アメリカの民主政治』(講談社学術文庫)

 「ニュー・イングランドの住民たちはその共同体に強く執着している。けれども、それは彼らがそこで生まれたためではなく、彼らの一人一人が共同体の一部を構成していて、共同体を統導しようとして払う苦労に値するだけの自由な強力な団結を、この共同体のうちに見出しているからである。」(上137頁)

 「人生において、尊敬されたいという願望や真実の利益への欲求や権力と名声との追究などが集中化されるのは、日常の生活関係の中心である共同体においてである。社会を非常にしばしばわずらわすこれらの烈しい情熱が、このような家庭生活の中心の近くで、そして幾分家族の中で、活動するときには、その性質はなごやかな性格に変化するのである。」(上138頁)

 「多数者が一旦形成されると、多数者の前進はとても阻止できない。それで、多数者が前進の途中で蹂躙し、破砕する人々の不平に耳を傾けるだけの余裕も多数者には残っていない。このような事態の諸結果は、将来にとって有害であり、そして危険なことである。」(中166頁)

 1835年刊行の本書は、青年トクビルがアメリカを旅し、革命後混迷する母国フランスの現状を憂いながら、民主主義の必然性と本質とを伝えようとしたもの。

 アメリカの民主政治の土台は、地域において共同体のために働き、認められたいという情熱によって支えられていると分析する。一方、経済的な覇権を志向するアメリカ型の民主政治が、多数派による専制(衆愚政治)や軍事力の強大化につながる危険性もあることを指摘し、地域単位での草の根民主主義の大切さを唱えている。

 個人の情熱が大きな国家を動かそうとするときには独裁の危険性が伴う。しかし、身近な地域においては、そのような情熱が与える社会的影響はおだやかなものだ。こうしたトクビルの指摘は、地域で政治を再建することの意義を唱えているように思える。


11 幸田露伴


『一国の首都』(岩波文庫)

 「国民の富力、聴力、智力の充実せるや否やは、首都実にこれを代表し曝露すといふも誰かは敢て異議を挿まん。」(10頁)

 「市内市外の限界明らかならずして、市内も市外の如く市外も市外の如くなることあれば、これに対する各般の施設経営、その当を失しその功を没し、甚しき不便と混乱とを生ずべければ也。」(69頁)

 「けだし水の氾濫するが如く容易に市外を呑みて市内となすところの都は、面積のみ過大にしてその実質は比較上希薄鬆疎なるものとなるべく、繁栄に比例してその実質の堅厚豊富なるに至らんことの望み難かるべきは必然の結果なり。」(73頁)

 「公園は都府の肺臓なり」「都内の人民をしてその職業の余暇を以て公園内に散策逍遥し、労を医(いや)し気を養ふの習慣をなすに至らしむべき也。」(102~103頁)

 露伴33歳、明治32(1899)年の論文。「江戸」が「東京」となって30年余、江戸の良き伝統は薩長土肥など人士によって破壊されたが、次第に東京都民としての落ち着きが出てきた。新旧の住民が、愛するにたる東京の建設に力をあわせることを願い、あるべき帝都論を総論から売春(花街)の歴史に至るまで幅広く論じている。

 露伴は、都市が都市であるためには、農山村が健全であり、その区画も明瞭に区別されている必要があると主張する。大町をはじめ、今日の日本の地方都市の現状はどうか。市街地が無制限に、散在的に拡大し、その結果、街なかの求心力は失われている。それが巨大化したものが「首都圏」であり、その中心には空疎な政争とマネーゲームの舞台があるだけである。


12 コルビジェ


『輝く都市』(鹿島出版会SD選書)

 「あらゆるもの、あらゆる力を駆使することができる。機械、輸送力、工業組織、行政管理の力、純粋科学、応用科学など。これらはすべて現在すでに存在しているものである。これから努力すべきことは現代の社会を不統一から救い、それを調和へと向けることである。世界は今、調和を必要としており、調和をもたらす人々の手によって導かれることを必要としている。(15頁)

 「アンケートに対する回答などというものは、技術についての不充分な、役に立たない、あるいは、時には完全に誤った知識に支えられた感情的反応以外の何ものをも表さない。」(182頁)

 「都市を街路の制約と圧制の下から解放すること。かくして都市は、少しずつ公園に変わっていく。」(113頁)

 1930年の本書は、日本の戦後の都市再開発にも大きな影響を与えた。モダニズム建築の提唱者であり、本書やアテネ憲章(1933年)の起草などを通じて、建物単体から都市全体への注意を喚起した。日本の都心開発における公開空地や総合設計度などにその影響を見ることができる。

 ハワードが田園空間に新都市を建設して「都市と農村の結婚」を図ろうとしたのに対して、コルビジェは都会の公園化を図ることで都市問題への処方箋を与えようとした。都市計画の力で社会の病を治癒できると考える点で楽観的ではある。しかし、技術や進歩を前向きにとらえて生活に活かそうとする姿勢や、思想にとらわれず創造性を重視して実務的にかつ体系化をめざす姿勢に私は共感する。


13 マンフォード


『都市の文化』(鹿島出版会)

 「地域の再生と再建こそ来るべき時代の偉大な政治課題である。」(351頁)

 「真の共同体と真の地域体は国民国家の境界線とイデオロギー形態には合わないのである。」(354頁)

 「集団行動の劇場としての地域のあらゆる多様な可能性の利用は民主政治の課題である。」(368頁)

 「地域計画は社会教育の手段であり、そのような教育なしには、部分的な成果しか期待できない。」(378頁)

 「建物に限定されたパートタイムの学校から、近隣区・都市・地域の全生活を調査しこれに参加するフルタイムの学校へ。共同体の現実環境や社会的実践によってその真理と価値の大部分が否定されてしまう学校から、生活の要求と可能性と一体の教育、目的と理想に一致して現実を改造するための必要な努力を惜しまない教育へ。これこそ、現代教育の道を切り開く別の一連の歩みである。」(469頁)

 本書(1938年)は私が最も影響を受けた本である。中世都市の再評価から始まり、都市の発展と衰退の輪廻を社会学的に描き、地域を基礎にした市民参加による調査・学習活動の上に、都市の再生を展望する。社会教育分野での古典でもある。

 ここまでの古典抜書きは「農村」「仕事」「地域の規模」といった切り口から取り上げてきた。ここからは、地域における「学習」の意義について、先人たちが書き記したものを紹介する。