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14 ウェーバー


『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)

 「民族的あるいは宗教上の少数者は、「被支配者」として他の「支配者」集団と対立しているような地位にある場合には、自発的にせよ強制的にせよ政治上有力な地位から閉め出されていく結果として、とりわけいちじるしく営利生活の方向に向うことになるのがつねで、彼らのうち才能ゆたかな者たちは、政治的活動の舞台で発揮することのできない名誉欲をこの方面で満たそうとする。」(23頁)

 「来世を目指しつつ世俗の内部で行われる生活態度の合理化、これこそが禁欲的プロテスタンティズムの天職観念が作り出したものだったのだ。」(287頁)

 「この禁欲は企業家の営利をも「天職」と解して、それによって、この独自な労働意欲の搾取をも合法化した。このような天職として労働義務を遂行し、それを通して神の国を求めるひたむきな努力と、ほかならぬ無産者階級に対して教会の規律がおのずから強要する厳格な禁欲とが、資本主義的な意味での労働の「生産性」をいかに強く促進せずにはいなかったかはまったく明瞭だろう。」(360頁)

 「こうしてピュウリタニズムの創造した心理的起動力は、政府の権力にたよらない、部分的にはむしろそれに抵抗して生まれつつあった産業の建設に、決定的な助力を与えることになった。」(361頁)

 「営利のもっとも自由な地域であるアメリカ合衆国では、営利活動は宗教的・倫理的な意味を取り去られていて、今では純粋な競争の感情に結びつく傾向があり、その結果、スポーツの性格をおびることさえ稀ではない。将来、この鉄の檻の中に住むものは誰なのか、そして、この巨大な発展が終わるとき、まったく新しい預言者たちが現われるのか、あるいはかつての思想や理想の力強い復活が起こるのか、それとも一種の異常な尊大さで粉飾された機械的化石と化することになるのか、まだ誰にも分からない。」(366頁)

 1905年に書かれた論文。西欧において資本主義経済が勃興してくる過程で、その動きを人びとの心の内側からおしすすめていった心理的起動力、あるいは精神(資本主義精神)と世俗的な営利に対して禁欲的なプロテスタンティズム、とくにピュウリタニズムとの歴史的関係を社会学的に追及したもの。

 ウェーバーは、宗教上の少数者たちの間で形成されたエートス(ある集団の倫理的な心的態度)が、資本主義の形成に強く寄与したとみている。だから、人間の精神的な営みがが社会に与える影響に確信をもって行動しなければならない。地域おこしには強い信念に根ざした学習活動が大切であると教えてくれている。


15 石母田正


『中世的世界の形成』(岩波文庫)

 「古代都市は社会的分業の発達の結果として成立した都市ではなく、その成立からすでに純粋な政治的都市であり、社会的には地方と何ら連関をもたない孤立都市であった。」「その政治形態は必然的に中央主権的とならざるを得ないし、機構は官僚的となる」(291頁)

 「武士が自己の一族や村落を越えようとする努力、動乱のなかから新しい関係を獲得しようとする冒険的精神が中世的なものをつくり出す一つの力であり、かかる政治的態度の進歩こそ、神判と神託を中世在地武士の不可分の慣習として強めた原因である。」(330頁)

 「平安時代後期の貴族は律令制貴族と都市貴族の二つの面をもっていたが、藤原氏の専制が古い律令制的貴族を没落せしめた後は、貴族は一般に急速に都市貴族に転化し始めた。都市貴族の特質は集団の理念の欠如、したがって律令制貴族のもっていた国家観念の喪失にあると思う。」(368頁)

 「東大寺が庄民を寺奴と考えることは差支えないが、庄民がみずから東大寺の寺奴と感じるようになれば、それは決定的な意味をもって来る。かかる観念に基づく体制が、広汎な地域を占めるようになれば、それは国民的資質となり、国民は後世長くそれを重荷として背負わなければならない。」(390頁)

 「黒田悪党はけっして東大寺のために敗北したのではない。東大寺は自己の力では悪党に一指も染めることが出来なかった。黒田悪党は守護の武力に敗北したのではない。この守護こそ悪党を東大寺から引離して被官として組織したかったのである。黒田悪党は自分自身に敗北したのである。」(417頁)

 「地侍が悪党であることをやめ、庄民が自らを寺家進止の土民であると考えることをやめない限り、古代は何度でも復活する。」(417頁)

国家論の名著として知られる本書(1944年)は、10世紀より16世紀にかけて、伊賀国の南部に存在した黒田庄の歴史を通して、古代国家より中世社会への大きな歴史的潮流を描いている。また、アジアのなかでただ一つ「中世」を形成しえた日本の特質を描き出そうとしている。

 しかし、描き出された黒田庄の歴史は暗く、古代的支配者・東大寺の前に敗北をくりかえす。被支配者が卑屈になれば、それが地域的さらに国民的な「資質」(ウェーバー風に言えば「エートス」というのであろう)になってしまう。ここに戦時下で書かれた本書(1944年)の狙いがある。

 戦後、選挙があるたびに「地方分権」や「地域主権」が唱えられながら、逆の事態が進行してきた。地方や地域が中央に対して卑屈であり続ける限り、これらのスローガンは地方の選挙民から票を集めるための手段でしかなく、一極集中と中央集権は繰り返す。そんなことを考えさせられた。


16 エンゲルス


『イギリスにおける労働者階級の状態』(国民文庫)

 「(労働条件改善の法律など)これらすべてのものは、自由貿易と無制限競争の精神に真正面からさからうものであったが、同じ程度に、もっと不利な条件にあるその同業者に対する巨大資本化の競争を、さらにいっそう優勢にしたのであった。」(1-29頁)

 「いたるところに野蛮な無関心、利己的な残忍が一方にあり、言語に絶する貧困が他方にある。いたるところに社会戦争があり、どの個人の家も戒厳状態にある。いたるところで法律の保護の下に略奪しあっている。」(1-88頁)

 「たとえ人口の集中が有産階級に働きかけ、彼らを刺激し、発展させるにしても、それは労働者の発展をさらに急速におしすすめる。労働者は、自分たち全体を階級として自覚し始める。ブルジョアジーからの分離、労働者とその社会的地位とに固有なものの見方や、観念の形成が促進される。抑圧されているという意識が生まれてくる。そして労働者は、社会的及び政治的重要性を獲得する。大都市は労働運動の発生地である。大都市において、労働者は初めて自分たちの状態について反省をしはじめ、これと抗争し始めたのである。大都市において、プロレタリアートとブルジョアジーとの対立がはじめて出現し、大都市から、労働者の団結やチャーティズム及び社会主義が出発したのである。大都市は、農村では慢性的なかたちであらわれた社会という身体の病気を、急性的なかたちに変えてしまい、またそうすることによってこの病気の独特の本質と、この病気の正しい治療法とを明らかにした。」(1-243)

 1842年、エンゲルス24歳の著作。厖大な報告書や調査資料を引用し、自分とは見解が違う人びとの著作や死亡統計などに語らせ、実地観察の情報に客観性を与えていて、社会調査の古典でもある。

労働者の都市部への集中が、生活の悲惨さのみならず、階級意識を育てる側面も指摘している。都市における社会問題の山積から逃げるように田園都市的な提案や地方への回帰が唱えられることが多い。しかし、エンゲルスは、都市であるからこそ人々が学習し、組織され、力を発揮しうるのであり、社会革命の展望をそこに見出している。

 それと、最低賃金や社会保険制度などの労働者保護の制度が、中小企業を不利にして大企業を保護する性格をもつという指摘もするどい。


17 リリエンソール


『TVA~民主主義は進展する~』(岩波書店、絶版)

 「資源の開発にとってもっとも重要な存在は民衆である。個人の幸福と繁栄はその真の目的であるばかりでなく、それは開発をやりとげるための手段である。彼らの叡智、彼らのエネルギー、彼らの精神力は、その道具である。『民衆のために』ばかりではない、『民衆の手で』なされるのである。」(91頁)

 「民主主義の理念の下に公私いろいろの事柄を取り扱う行政者の仕事の一つは、現代の科学と技術を素人の手にもってくる方法を工夫することである。」(149頁)

 「草の根もとにおける民主主義ということは、徹頭徹尾市民の自学自習だということが分かるであろう。」(171頁)

 「地域というものは、それを管理するという意味で、『こなすことができる』ぐらいの大きさのものでなければならない。」(192頁)

 「中央集権主義者、実業界の名士、皮肉な政治家といった連中、つまり民衆自身にはやってゆく能力がないと信じている連中は、すべて資源の開発を握って、それから利益を搾り取り、やがては、それで人間の生活までも支配しようとして一生懸命になっている。」(286頁)

 ニューディール政策の象徴ともいえるTVA(テネシー川流域公社)は、鉱毒のために死土と化したテネシー流域を再生し、治水、発電、運輸、衛生、社会教育などの総合的な地域開発をすすめた。

 本書は同公社の三代目理事長であるリリエンソールによって書かれ(1943年)、戦後日本の地域開発(多目的ダム開発など)に大きな影響を与えた。しかし、その基本理念である開発の3原則(①資源の一体的な開発、②地域に責任を持つ統合された機関による実施、③学習に根ざした住民の参加)が伴うものとはいえなかった。